非公開: 閑話けあ(16)感覚と概念

医療の現場で感覚は大事か?….研修医だったころ、外科の指導医に「考える前に手がでないとダメだ!考えるな!」と怒られたことをよく覚えている。出血している患者さんを前にアレコレ考えている暇などないのだ。外科医はその医療行為が感覚的になる訓練をする必要がある。

では、概念はどうか?こちらも大事であることは云うまでもないのだが医療の場合、概念とは科学を意味する。われわれ医師が臨床の現場で標準治療を患者さんに提供することは当然のことだが、標準治療は時代とともに代っていく。1980年まで、乳がんの手術は早期でも乳房切除術が標準治療だった。しかし、1970年代に実施された複数の検証試験(無作為化比較試験)の結果、乳房切除術を受けた患者群と乳房温存術を受けた患者群の生存率が同等であることが科学的に証明され、1980年に米国の厚生労働省にあたるNIHは、早期乳がんには乳房温存術が望ましいという勧告を公表した。

残念なことに、わが国で乳房温存術が標準治療と見なされるのには、さらに10年の月日が必要だった。「がん」は大きく切除した方が安全という外科医の感覚が、科学という概念を抑えた結果と云える。1980年当時、乳がんの乳房温存術について、外科の先輩諸氏から「欧米人と日本人は違う」というような意見(感覚)を耳にしたのを覚えている。感覚は感覚を呼ぶのかも知れない。

もし、わが国の医師にとって臨床試験が身近なものであったなら、もっと早く乳房温存術を標準治療と見なすことができたのではないだろうか。そして今、乳がんの手術に伴う合併症について、またしても感覚が概念を抑制しているようにみえる。乳がんの標準手術にはリンパ郭清(一定の範囲でリンパ節を切除)やセンチネル生検(少数のリンパ節だけサンプリングする)が伴う。そして、リンパ郭清やセンチネル生検を行うと、ある一定の割合で患者さんにリンパ浮腫が発生してしまう。

近年、予防的なリンパ節郭清は縮小される方向に向かっていたが(乳がんでは標準化している)、リンパ節転移が明らかな乳がんは、現在もリンパ郭清することが標準治療である。そして、腋窩(脇の下)リンパ郭清を受けた患者は、患側上肢の運動や重いものを持つことを避けた方が良いという指導を受ける。ただでさえリンパ浮腫の起こる危険があるのに、患側上肢の激しい運動や負荷はもってのほか!という訳だ。そして、患側上肢を保護するように生活した患者さんは、肩が固まってしまう。

乳がんという病気を治すために、患者さんがリンパ浮腫や肩の機能不全を起こすことは仕方がないのだろうか?手術の合併症が、ある一定の割合で起こることは避けらない。しかしそこには、「十分かつ正しい予防」を行っても、という大前提があると私は思う。乳がん術後にリンパ浮腫が発症しないように患側上肢に負荷は掛けない方がよいという指導は、感覚的に正しいように思える。しかし、2010年に米国医学誌のJAMA誌上で「腋窩郭清後のリンパ浮腫予防にウェイト・リフティングが有効性」が報告された。興味のある人はJAMA. 2010 Dec 22;304(24):2699-705. Epub 2010 Dec 8. Weight lifting for women at risk for breast cancer-related lymphedema (BCRL) : a randomized trial. を参照されたい。

患側上肢への負荷(ウェイト・リフティング)はリンパ浮腫の発症を増加させるどころか、減少させることが科学的に証明されているのだ。他にもウェイト・リフティングを含むResistive Exercise (負荷運動)がリンパ浮腫治療の成績を上昇させたという報告があり、負荷運動のnegative studyは報告されていない。(参照)Arch Phys Med Rehabil 2010;91:1844-8. Effect of Active Resistive Exercise on Breast Cancer–Related Lymphedema: A Randomized Controlled Trial.

われわれ医療者は、患者さんに標準治療(もっとも効果的な治療)を提供するためには、常に科学的なレビュー(Systematic Review)をする必要がある。何がもっとも安全で効果的な治療か?標準治療なのか?意外かも知れないが、科学的な根拠(検証試験の結果)が乏しい領域(病気/病態)が沢山あるのだ。医学は科学であり、治療方法は伝承されるものではない(してはイケない)。2次性のリンパ浮腫治療でさらにSystematic Review(BMC Cancer. 2012; 12: 6. Published online 2012 January 4. doi:  10.1186/1471-2407-12-6の結果を紹介すると、わが国で一般的に(広く)有効とされているドレナージ(マッサージ) massage-based therapyについては、6つのRCT(無作為化比較試験)が報告されている。そのうち5つのRCTがnegative studyであり、バンテージ法やスリーブといった他の保存療法と組み合せて標準的に奨める根拠が乏しい。一方、リンパ浮腫治療しての減量(ダイエット)は有効であるという根拠(RCTの結果)が報告されているが、わが国で減量指導がリンパ浮腫治療の「要」として指導されているという話は聞いたことがない。(参照)CANCER October 15, 2007 / Volume 110 / Number 8 1868-1874  A Randomized Controlled Trial of Weight Reduction as a Treatment for Breast Cancer-related Lymphedema.

乳がん治療では乳房温存術とセンチネル生検が標準治療となり、患者さんの手術侵襲は小さくなったが、手術の合併症であるリンパ浮腫の予防や治療については、いまだ感覚に支配されており、科学という概念が浸透していないように見える。

岩瀬 哲
著者プロフィール:岩瀬 哲

東京大学医学部附属病院緩和ケア診療部 副部長
1994年埼玉医科大学卒業。2003年より現職。緩和医療学と臨床試験データ管理学が専門。座右の書は「葉隠聞書」。元ボクサー。JAZZはダラー・ブラントの「アフリカン・ピアノ」。リチャード・ドーキンスに影響を受け「進化医学」も標榜している。
2007年以降もっとも力を注いでいる業務は、がん患者と家族を中心とする「地域医療連携」。がん患者と家族には「かかりつけ医」が必要と訴えている。
日本乳癌リサーチネットワーク(JBCRN)と日本緩和ケア検証ネットワーク(JPCAN)の科学ディレクター兼任。2011年8月、TIA(一過性脳虚血発作)を発症するも復活。

“非公開: 閑話けあ(16)感覚と概念” への1件のコメント

  1. 竹下 貞子 より:

    2年前に「右乳がん」の2期手術して今年の5月より「リンパ浮腫」の症状が有り「廣田彰男・佐藤佳代子」の本や他の資料をネットで調べ先生の講演会の案内に接しました。大阪在住で70歳で成人病センターの「臨床試験を受けています。アリミデックスー放射線ー手術で手術後「体液」が溜まり後日、傷口が壊死して再手術をしています。現在「右わきの下・背中・中指の関節痛・右手全体のだるさ」に90歳まで呉服店を営業する予定ですので、「画期的に変わったリンパ浮腫の治療法」を受診できるのでしょうか。大阪で受診できる病院は在るのでしょうか。よろしくお願いします。 

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