非公開: 閑話けあ(6)進化医学

ヒトが知っていて、知らないこと。たとえば、ヒトはいつか死ぬこと。ヒトには寿命があること。これはひとが知っていて、考えないようにしていることではないだろうか。私はがん医療の現場で働いているので、「死の否認」によく遭う。そして、その不具合を目の当たりにすることがある。がん患者さんには体調を悪くしているだけの抗がん剤を受け続けるヒトがいるし、それに何の疑問も持たずに提供する医師のヒトがいる。

「死の否認」は本能と思われ、私はむやみにメメント・モリ(死を想え)とは云わないが、ヒトのご先祖様が永い間、500万年ぐらいアフリカのサバンナで暮らしていたことは知っておいた方が良いと思う。 ヒトのご先祖様たちがアフリカのサバンナを出て、世界中に散らばっていったのは約7万年前だという。するとヒトを時系列でみると、7万年前は最近の話になるのだ(7/500だから)。

500万年という時間の流れを実感するのは難しいし、7万年だって気が遠くなりそうだが、R・ドーキンスの手法を用いると実感することができる。東京から京都までは約500kmある。これを500万年と見立てる。すると、いま私の立っている東京の本郷から、京都へ1km先の地点が1万年前。200m先が2000年前-これは見える範囲だ。足元から10cm先が1年前となる。歩いて東京から京都に行った人は居ないと思うが、東京から京都まで、どのくらい離れているか、車で移動したり、新幹線の窓を覗きながら移動したことのある人なら判ると思う。 我々はいま人工物に囲まれて、少なくともわが国では餓える心配もなく、比較的安全に暮らしている。病気以外のことで生き延びることができるかどうか、心配している人は居ないと思う。

しかし、その当たり前の暮らしが、ヒトの歴史を考えると、つい最近のことなのである。 ヒトは永い間サバンナにいて、そのサバンナで様々な「形質」を身に付けたのである。ヒトは脂肪・糖分が大好き、塩分も好き。これらが常に不足していた環境(サバンナ)では、すこぶる道理にかなう「形質」なのだ。 「私は甘いのが苦手」と反論する人は、私の「閑話けあ」を読まないで欲しい-私は進化の話をしているので、個人の嗜好の話だと思った人には読んでも面白くありません-つまり、進化は環境の変化よりも遥かに遅いのである。このような目線、進化の目線でヒトを診るのが「進化医学」です。

ヒトがサバンナで暮らしていたとき、ヒトの集団は大きくても100人くらいの規模だったと推測されている。その中でヒトは利他性、互恵性を生き残るだめの形質として獲得した。これらが我々の本能であるならば、ヒトの患者と家族が欲して、ヒトの医師が意味のない抗がん剤を提供したり、終末期になっても輸液を提供する理由が理解できる。要は、食いっぱぐれて洞穴に戻ってきた仲間に、自分の吸ってきた動物の血を口移しに与えてやる「血吸いコウモリ」と同じなのだ。乱暴な考えだと云われそうだが、ヒトだけ生物から切り離して、特別のものと考える方が乱暴だと私は思う。他の生物の進化と同様にヒトの進化も考えて、我々は病気と向き合った方が良いのではないだろうか。

1993年にマージー・プロフェットというひとが「つわりの進化論」 という論文を発表した。彼女は「つわり」の重い妊婦と「つわり」の軽い妊婦の流産の比率を調べたのだが、「つわり」の重い妊婦の方が圧倒的に流産の比率が低いことが判った。「つわり」は胎児が主要器官を発達させる、毒にいちばん弱い時期に一致して起こるため、彼女は「つわり」を食物の毒素から胎児を保護するように設計された形質だと考えた。しかしながら、この仮説は医学界では受け入れられていない。私は「疼痛」の治療についても進化学的考察が必要と考える。「つわり」と同様に「疼痛」も完全に取れることが目標とされるが、本当に完全に取った方が良いのか?安静時の疼痛がなければゴールでないのか?体動時に負荷が掛かって起こる痛みは、むしろ不具合(骨折など)を知らせる大事な信号ではないのか?理学的に「疼痛」が起こらないように工夫した生活をマスターする方が理に適っているのではないか。

岩瀬 哲
著者プロフィール:岩瀬 哲

東京大学医学部附属病院緩和ケア診療部 副部長
1994年埼玉医科大学卒業。2003年より現職。緩和医療学と臨床試験データ管理学が専門。座右の書は「葉隠聞書」。元ボクサー。JAZZはダラー・ブラントの「アフリカン・ピアノ」。リチャード・ドーキンスに影響を受け「進化医学」も標榜している。
2007年以降もっとも力を注いでいる業務は、がん患者と家族を中心とする「地域医療連携」。がん患者と家族には「かかりつけ医」が必要と訴えている。
日本乳癌リサーチネットワーク(JBCRN)と日本緩和ケア検証ネットワーク(JPCAN)の科学ディレクター兼任。2011年8月、TIA(一過性脳虚血発作)を発症するも復活。

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